Saturday, March 17, 2012

吐き出す


父母世代(70's‐80's)の音楽がすき。すきなんだな~><
http://www.youtube.com/watch?v=mTa8U0Wa0q8
http://www.youtube.com/watch?v=aQhKqlOccHE
http://www.youtube.com/watch?v=1e_j66mgTDE
http://www.youtube.com/watch?v=uu_8l7-xcFY
http://www.youtube.com/watch?v=2wxFn74Kr8M
幼少時代、こんな曲ばっか家のなかで親が流してて、 自分らだけごきげん。
何言ってんのかさっぱりわからん。日本の流行曲のCDがほとんどなくて、子どもなりに不満だった。 けど今になって改めて聴くと、しっくりくる、というか。 自然につぶやいてしまうほど大好きな曲になったんだと気付く。

わざわざ大学まで行って英語勉強した理由の一つにも、 「こういう唄上手に歌いたい」って想いがあったから。てのはある。 パフォーマーになる気合もなかったし、だいいち努力で賄える実力もないから、ただ、趣味として身に付いたら素敵だなぁ、って思っただけ。 そのうえ就職云々に全く関係ない技術だから、大学入学当初は 「将来は外資系企業に」「グローバル就職を」とか綺麗事並べて根底隠してた。
なにより、その頃の私はあらゆることに 臆病 だった。

あ、でも海外で生きてみたかったのは本音。

女子高生時代。女子の陰湿ないじめと戦えなくて、ウジウジにこにこして、誰にも言えず。未遂を繰り返し。ある時、親にバレて出動しようとする親必死で必死で止めたりして。
修学旅行や遠征先でのディズニーランドも全然楽しくなくて、自宅帰ってくるなり泣き崩れ乱れ。
親はどんだけお金出してくれてるのか考えもせず、その時は今までで1番親を悲しませてた。
3年間ずーっと。周りは「いじめ」という認識もなかったかのように思える。私も、「つらい、くるしい」と感じる自分が変なんだ、と、必死で感情をかき消しては作り笑顔をしてた。


家では
 「えみり、わらてよぉ」って

つたない日本語でただ一言、泣く母に言われた時はさすがに堪えた。娘として情けなくて。
たったそれだけの要求にも応えられず、"独り"が怖いくせに親をも突き放してた。ほんとマセガキ。  ただ、プライドも名誉も精神状態も崩れ去った状況でも、バスケットだけは続けた。
 「好きこそものの上手なれ」なんて、あれ、うそ。好きだけど、周囲にも自分にも負けちゃあ不毛。 女子だけのあの空間が1番恐怖だった。変な緊張ですぐに息が上がるようになって、走れなくなってった。
一切活躍できず存在価値は見いだせないままだったけど、それでも、ただ、すきだから続けた。あと、長い遠征先や試合会場への移動中は、音楽だけが味方だったかな。 クサイ響きだけど、本音の感覚。ばすけと、おんがく・・・

公で「楽しかったです!」アピールしながら卒業。
卒業式の後も嫌な意味で泣いて帰ってきて、 「ごめん」って何度も言って、親をどん底に突き落としたなー。結局泣き寝入りに終わった私の高校3年間。
失ったものが大きすぎる、多すぎる。不毛すぎる。
なんだろう。なんだったんだろ、ほんと。



・・・・・そんな弱い自分のにおいが染みついた町を、とおーくとおーく離れたかった、 で、2度と戻ってきたくなかった。だから、海外。
カッコイイ人ならここで海外に飛び出しちゃうんだろうけど。なんさん、クソ臆病もん。
まず、英語を勉強しようと。で、英語の唄を人知れず歌おうと。

だから、結局は県内の大学に留まる(笑)。
英語を学べる自由な環境が気に入った。
あと、どこかに、家族が心配って気持ちもあったから。
ただ、在学中は本当に地元に寄りつかなかった。
大学校区から少しでも阿蘇方面に近づくとお腹が痛くなったもんだ。

「花の高校時代」がなかった影響で、私の「歓びものさし」が過敏に(笑)。
大学生活、零からの再スタートした先で出逢ったたくさんの友人・恩師には、本当に感謝してもしきれない。 友人曰く「ふつうに接してるだけだよ。」が私には神がかりな優しさ。
 またヒトが好きになれた。挑戦志向になれた。
 自分を出してもいい場所をようやく見つけた。

社会人となり、今の職場がまさかの地元。思ってもみなかった現状。

同じ町だけど、あのころと全く違う景色に見えるんだ。

まだ実現はしてないけど、あの時分かりあえなかった人たちにも
私から声かけれる、きっと。@笑顔付き




先ずここまで振り返ってみて、自分の盲目だった部分がありありと見えてくる。
高校時代だって、思い起こせば・・・・
校舎で人が少ない時に「負けないで」って声かけてくれる人がいた。
クラスのみんなで居るとき、がんばって私を笑わせてくれる男の子もいた。
 (人の目を気にして大口開けて笑えなかったよ、ごめんwおもろかった!)
中学卒業して他校に通ってた友人の多くも、かなり心配してくれてた。
カラオケに全然誘われなかったから、家で素で歌っては母がめっちゃ笑顔で聴いてくれてた。
部活引退の最後の練習後、輪を外れ涙目で更衣室に戻る私に1人だけ、駆け寄って声をかけてくれた後輩がいた。

ずっと強さを見ていた、ありがとうございました、と、笑顔。

彼女は3年に上がり、部のキャプテンに。
今も、めちゃくちゃ素敵な笑顔で取材班?みたいなお仕事がんばってるみたい。
その一言、その笑顔に、僅かでもこの3年間には意味があったと、「初めて」思えた瞬間。
私のたった一つの栄光を作ってくれた、彼女の 静かなる 太陽みたいな パワー。

すごかった。本当にありがとう。



いまでも これからも それはたからもの



「たった一言が、人の心を傷つける
たった一言が、人の心を温める」

概して、もっと広く物事を捉えていれば 見えていれば
早期に 救われていたかもしれない
感謝すべきものの存在を実感し 登校も苦にならなかったのかもしれない
何のしがらみもなく 笑えてたのかもしれない、なぁ。



――――――

ここまで自分の中にある鉛を文字起こししたくなった動機は、昨日の職員研修。
「知的障がいってなんだろう?」がテーマ。

障害にもAⅠ、AⅡ…と等級があるけど、育ってきた環境・経験・思考は千差万別。
「この人はAⅠだから等級基準上、こんな言動があって、これが苦手であれが出来て」
と判断するのは、どぉーーも気持ちが悪いんだ、と
泥沼現場を多く見てこられた今日の講師Kさんは言う。
だって、経験上、苦手を克服済みかもしれない。
逆に、等級上「出来る」はずのことが全然できない人かもしれない。
心得ておかなきゃいけないのは、「その人の本質」を知らぬことには、その人の為の部分支援(⇔統括支援)はできないということ。
機能上できないことと、経験上できないことを区別し、理解すること。
経験で乗り越えられることは、工夫して練習の環境を作ってあげること。
そして、  どれだけその人と向き合えるか   が部分か統括かを左右する。

先入観、固定概念、噂、

こんなもんに嫌気がさしたときは
本当に動物に産まれればよかったとよく思ったものだ。
高校の時、同級の初対面の人に「あーこいつが例の被害妄想の子?」と言われた時は
くやしくて くやしくて ぶん殴ってやりたかった。        エルボーで。

講習を聴きながらこんなことが頭をよぎったころ、
Kさんは「小学校は登校拒否で、高校は退学して他校に飛ばされて…。
いろんなシャバを見ましたが~…」等々、淡々と、はにかみながら話しだした。
ほんの触りしか話してないのに、あまりの素敵さに泣きそうになった、あぶないあぶない。
そんなKさんは今や、町の障がい者福祉を守るため居なくてはならない存在!
まじでスーパーマンに見える。
で、なんか、自分のしがらみのようなものを
気持ちよさそ~に、ふわわ~っと話すもんだから
まねしてみたかった。それが今日。

毎日泣きっぱなしだった自分を覆い隠して生きていこうと決めた大学入学時から
「どれだけ自分と向き合えるか」、を怠ってきた昨今。

それがでけんでどがんして人ば支えきるかい!!遅いながらも今、こう自分に渇を入れる。

福祉の世界で 日常生活の支援を必要としている人の為
周囲の理解が乏しい環境で 生きずらい想いをしている人の為
私だからできること 利用者さんの目を見て傾聴して 活かしていきたい。
そのまえに専門分野勉強せんばなんもでけんばいね~><;
で、将来は社会福祉先進国を視察にいきたい。本格的な音楽療法とかもみたいなぁ。
笑顔やスポーツ、音楽は国境も障がいも超えるっしょ!


すっきりしたー おわり(^∀^)ノ{I'm a Lucky Girl!





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